逃亡しませんか

夕焼けの降る街並は普段通りで、変わったことなんて何一つないのに、なぜか息苦しく感じた。
どこからか香る、食欲をそそる匂いにぐるぐると腹が鳴る。
ああ、早く帰らなくちゃいけないのに。
つい一週間前におろしたばかりのスニーカーは、けれど、すでに使い古したそれのように汚れている。
お気に入りになる前に、そんな事を忘れるくらいにあっちこっち走りまわされて、スニーカー同様、俺もすでにくたくただ。
昨日も、そのずっとまえから、今日も、そして多分明日も。

「つなよし、くん」

耳にかかる、夕暮れ時の合図。
それはたまらなく、自己を抑えがたい衝動に駆る声で。
けれどその一歩を、俺は踏み出せずにいる。
俺の左手の薬指と、骸の右手の薬指が絡んだ。
逢魔が時の魔物は、こんな風にヒトを誘い込むのだろうか。
そんな事を不意に思って、目を閉じた。
そうしてしまえば夕暮れの赤も、なにもかも、遮断してしまえるような気がして。

「このまま、僕と一緒に誰の目にも触れない、誰の手も届かない世界の果てへ、逃亡しませんか?」

逃げてしまえば、楽になれるだろうか。
否、そんなはずがない。
できるものなら、とっくに。

なぜ指を、手を、つないでしまったのかと今になって悔やむ。
両耳をふさいでしまえばよかった。

「僕を、しあわせにして、くれませんか」

まだしっかりと形の残るスニーカーのかかとを踏み潰した。
耐え切れなかった。

「ごめん」

くちびるは冷たかった。
夕焼けに染まって、いやにあたたかそうなのに。
少しでも熱を分けてやれたらよかった、けれど触れるだけの、くちびる。

「ごめんな、骸」

お前にはもう俺だけでも、俺にはお前だけじゃないんだよ。
そう言ったら、この、涙を知らないような男は泣くのだろうか。
まぶたの裏に水分を内包するのが似合いのセリフを、いつもと変わらない表情で言うような、こいつが。

泣くところを見たい、だなんて。
…さいてい。