コツコツ、コツ
広く静かな床にブーツの硬質な音が響き渡る。
肩口に流された柔らかな金の髪が歩くたびに揺れる。
青の軍服を春風にはためかせて一定のペースで長い廊下を歩く。
偶然その姿を見た若い下士官が動きを止め、一連の美しい動作に魅入る。
軍の正装を身に纏った上官と思しき女性仕官は歩みを止めてゆっくりと振り返った。
「こんにちは。お疲れ様です」
笑顔と共にアルトヴォイスの励ましを受けた下士官は持っていた書類を床にぶちまけた。
慌てふためくその姿を見て、女性仕官は口に手を当てて笑った。
ますます焦る下士官の顔が赤かったのはただ単に人前で醜態を晒し恥ずかしかったから、という訳ではない。
「大丈夫?」
手袋を嵌めた細長い指が、一枚一枚紙を束ねていく。
「ハイ。どうぞ」
見目麗しい女性仕官に間近で微笑まれて、平静で居られる男がこの世に存在するとは思えない。
現に、この下士官も心拍数が急激にあがり、顔は赤く蒸気している。
紙束を受け取る際、かすかに香ったオレンジの香りが甘く広がった。
「なあ、今日転属してくる少佐が女性だって本当か?」
中央司令部、今軍内で人気独占中の出世頭。
ロイ・マスタング少将の腹心の部下の一人、ジャン・ハボック中尉が煙草をフカしながら言った。
麗らかな午後の昼下がり、むさ苦しい面子で決して美味とはいえない茶を啜りながら書類に追われて居た時のこと。
マスタング少将の腹心の内唯一の女性であるリザ・ホークアイ大尉が居ない今、目の保養を求めて言ったことでもあった。
明日東から赴任してくる少佐の話は一ヶ月近く前から聞いていた。
ただ、男性なのか女性なのか、性別に関する事柄は全く聞いていなかった。
「ええっ!?そうなんですか?」
「初耳だな」
「右に同じ」
どうやら他のメンバーもそうであったらしい。
「今朝射撃訓練場でそんな噂を耳にしてな。デマかどうかは知らん」
もしも真実であったなら大したニュースだ。
なにしろ軍の内部を揺るがす事件が終末を迎え早三年。
目に見えて各国の争いが減り、軍の仕事も随分と平和的なものが多くなった。
復旧が始まった国には人手が居る。
軍に大した仕事が無いのなら自国のために勤めよう。
そう考えた女性達は次々に軍を辞め、家庭に入るものが多くなった。
当然部署移動をする女性など皆無に等しく、階級は『少佐』である。
自分達が中央に配属されてから女性どころか男性の転属者すら一人も居ない。
それだけに、最近所帯じみてきたという自覚すらある自分達に大きな変化を齎してくれるという期待の下、男達は話にまっピンクな花を咲かせた。
「どうせなら美人がいいよな〜」
「そうだな・・・・大尉も美人だけど、できればもう少しやさしめの・・・・・なぁ?」
「って・・・・・まだ女性だと決まった訳では・・・・・」
「・・・・・・それ以前に、赴任してくる少佐の名前すら知らないということの方が問題だと思うのですが」
知らない、というよりも『知らされていない』という方が正しい。
もう数十時間後には同じ職場で働く上官の名前・・・・・ファミリーネームすら、自分達に知らされていない。
聞いた所によるとマスタング少将すら知らないとの事。
多々ある噂の一つには隠居したお偉い方の子息(子女)では無いかと言うものもある。
あからさまに名前を晒し、軍特有の上下関係から子供を守ろうという腐った親心だというのが今一番の有力説だ。
32歳で少将という異例の出世を遂げた男を恐れ、上から威圧をかける・・・・・べつに不思議なことは無い。
縦社会ではありがちな現象だ。
親の七光りに大した実力があるとは思えないので、その場合大した問題も無い。
「仕事が時間内に終わらない方が問題だと思うのだけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・・大尉」
音も無く部屋に入り、済ました顔でツッコミを入れるのはホークアイ大尉。
先ほどまでのムードが一気に崩れ去り、冷たい風が吹き荒れる。
ああ、おかしい・・・・・・・今は春なのに何故こんなに寒いのだろう?
「見たところ進み具合はあまり良くないようね」
それはそのはず、そろいもそろって明日赴任する少佐の話で盛り上がっていたのだから当然仕事は進んでいない。
いつもならありえないが、好奇心が仕事を上回り、その後のことを考えさせる思考力を霧散させたのだ。
「まあいいわ。少将がお呼びよ」
「?全員・・・・・・ですか?」
全員、つまりこの部屋は空になる。
なにか特別なことが無い限りありえない事態。
春なのに真冬の空気を体感することから免れたのはいいとして、それ以上の問題が発生したのかと冠くぐるのは軍人として当然だった。
「ええ、噂の少佐が一日早く到着したらしいわ」
噂を確かめるにしても丁度いいタイミング。
何にせよ、しばらくは話のネタには困らないだろう。
「それにしても何で俺たちだけが?」
ホークアイ大尉は意味ありげに微笑んで青の軍服を翻した。
胸にわだかまった疑問も、数分後には解決するだろう、そんな気持ちで彼らは執務室へと急いだ。