目が醒めたら、まず見慣れない天井が目に入って一瞬瞠目した。
けれど、よくみてみれば自室でないこと以上にここがどこかということが分かってきて気分が果てしなく重くなった。
ため息、それにかぶさるように声が投げかけられた。
「よく寝てたね、めずらしく」
「・・・毎日誰かのせいでロクに睡眠をとっていないもので」
口を突いて出たのは遠回しな悪態で、けれどこの程度で何かが変わる訳でもない。
こんなことは日常茶飯事、通常の動作範囲内の出来事だ。
ただ向かいの主人の部屋で目を覚ますということが日常かというとそうではない。
自分はこの男の向かいの家の使用人なのだから。
と、本人に言ってみてもなんに意味は無いことくらい何年も前から分かりきったことだったが。
「だったらもう少し寝ていればいいよ」
さも当然のごとく、傲慢極まりない発言をする。
その後に返される言葉が否定だとわかりきっているのに発する何の意味も無い言葉だ。
「そういうわけにも参りません」
あくまでも仮定の話だが、今ここでそうすると答えたらこの男はどう返すのか。
生憎と自分にはそれを試せるだけの度胸も無いしそれをするほど愚かでもないのでした事はなかったが、頭の中では幾度となく思ったことだ。
「ねえ」
今まで視線も合わせなかったユーゼフが蒼い瞳をこちらへ向けた。
口元は笑みの形、けれどその目はちっとも笑ってはいなかった。
「もうそろそろ僕も限界なんだ」
この男の言葉にはいつも主語がない、それは自分も同じだった。
明確に何かを言ってしまったら僅かな力で保たれていた均衡はあっさりと崩れてしまうだろうから。
隠してきた本心が簡単に露見してしまうからお互いに暗黙の了解となっていたことだ。
だから、分かる。
「・・・・・・」
けれどまだ答える訳にはいかなかった。
無駄に大きなベッドの上で、拳を握り締めた。
キシ、と静かな音を立てて揺れるベッドの上。
気づけばユーゼフは目の前にいた。
「だから」
わざとなのだろうか、それとも己の耳の錯覚か。
その言葉は酷くゆっくり、一言一言が長く重く響いた。
「全部、頂戴」
咽元で何かが痞えている。
それを吐き出す前に強い力で顎を引き寄せられて、思わず目をつぶった。
唇が触れる、氷のように冷たいそれとは対照に舌はとても熱かった。
「っ・・・・」
嫌悪は欠片ほども無かったが、腕がかすかに震えていることを悟られやしないかと内心はヒヤヒヤものだった。
二人文の体重を受けても下世話な音を立てないベッドは平静を保とうとするのを少しだけ助けていたが、どんどん荒くなる息遣いはもはや自分でどうこうできるレベルではない。
「っぐ・・・・ぁ・・・・・」
「楽にしてあげるよ、何もかも」
「・・・・いらない・・・っ」
現状を嫌だと思ったことは無い、ただ否応無しにできてしまう僅かな溝をこの男は探り出す。
自分ですら気づかないことを、淡々と告げてみせる。
「そんなにあの男が好き?現状に甘んじてしまうくらい、それを望むくらい好きなの?」
知らない、そんなことは知らない。
シーツを握り締める手に力が篭る。
うっすらと目を開けると、ユーゼフは笑っていた。
捕食者の目で、見つめていた。
「でも、絶対に逃がさないから」
逃げようと思えば逃げられた。
けれど、例え偽りでもその檻は酷く居心地が良かった。
「ひっ・・・・ぐぁ・・・・・」
言葉を飲み込んだむ咽元が熱い。
焼けるようにチリチリと刺す痛みが身を苛んで、額に汗が浮いた。
「声、出せばいいのに」
「・・・ぅ・・・・」
それを放棄できるならとっくにしている。
甘ったるい自分の声なんて聞きたくも無い。
それに、それだけに集中していればほかのことは考えなくても済む。
右手の甲を口に押し当てる、歯を立てれば血がにじんだ。
鉄錆の味はもう慣れ過ぎて感じもしない。
「可愛くない」
掃き捨てるように言ったユーゼフが見た目を裏切る強い力で右手をひいた。
唾液と汗と血が混ざってぬれている手を舌でゆっくりと舐める。
体のほうはとっくの昔にユーゼフに慣れきっているはずなのに、自身がいつもそれを理性で拒むから思考のほうはいつまでも慣れないままだった。
背から首筋にかけて怖気にも似た冷たい感触が走ると反射のように体をしならせる。
声を殺すのに精一杯で、他のことになんて気がまわらない。
いつも思うのはこの行為が早く終わらないかと、それだけ。
目を閉じて、声を殺して、全て拒絶したかのように受け入れる。
そう、受け入れて、赦す。
結局の所、自分はこの男のことが嫌いではないのだ。
自分と何処か似た空気が常に纏わりつく、嫌悪感を感じなかったのはそのためか。
ただどちらかが入れ込んではいけない。
反撥することで同じ距離を保っていなければならないと、本能で感じ取った。
「事の最中に考え事とは、君も随分大人になったねえ」
「俺が一体・っ・・幾つだと思って・・・・・」
「そんなの関係ないよ、僕にはね」
言葉の余韻が完全に失せる前に、その口がゆっくりと被さった。
手は肌蹴られたシャツに差し込まれ、焦らすように爪で肌を引掻いている。
それがこの上なくもどかしい。
「悪趣味・・・」
「今ごろ分かったの?」
離れた唇をにっ、と歪ませてユーゼフは笑った。
芯から冷え切るような、全ての物を蔑むかのような目で。
いつも記憶に残るのはその冷たい目ばかりだった。
瞳孔が縦に長い、人とはかけ離れた獣そのもののような。
悪趣味だと、認めたけれど。
それよりもなによりも、悪趣味なのはこの腕を突っぱねられない自分の方だ。
「ホント、趣味悪いよね」
それはお互い様だろうと言うと笑いながらもあっさりと肯定される。
その間にもユーゼフのは指先に引っかかる突起を弄りながら、辿り着いた足の間では直截に、さっきから反応を煽っている自身をやんわりと握りこんだ。
「やめっ・・・・・・!」
生々しい刺激に身を捩じらせても、体はピクリとも動かない。
強く舌を吸い上げられて、唾液が顎を伝った。
一度はなれてまた舌を差し入れられる。
「んぅ・・・っ・・・・」
ユーゼフは触れ合ったままの舌先をぬるりとこすり合わせて動きを制し、急がず手のひらの中で追い立てた。
撫でさすっているだけでぴんと立ち上がってきた胸の先を指先で捏ねると、舌を入れたままの喉奧からくぐもった声が上がって、瞬く間に手のひらがぬめってくる。
「想う相手がいるくせに、僕とこんな事してていいの?」
ぐ、と指の腹で強く擦られて悲鳴に近い声が咽元まででかかる。
きつく寄せられた眉根は深くしわを刻んでいく。
分かりきったことばかり聞く。
答えられないようなことばかり聞く。
同じ事を聞き返したって同じように答えられないくせに。
自分だって同じくせに。
「っ・・・仕方ない、だろうが・・・」
自棄のように言って、色の白い背中に爪を立てた。
「・・・何が?」
それは望まれない答えだったのかもしれない。
不思議そうに続きをせびるユーゼフは手を止めて真っ直ぐに視線を投げた。
イライラする。
その顔が本当に不思議そうなものだから、胃の辺りが急にむかむかしてきた。
「――――っ!」
だれて力の入らない腕を必至で動かして、ユーゼフの首に巻きつけた。
片腕に思い切り力をいれて引き寄せると意外とそのまま大人しく成すがままになっていた。
表情が失せていた。それが、なんだかおかしかった。
自分から口付けるのはもしかして初めてかもしれないと頭の隅で思った。
「アンタも好きなんだから、仕方ないだろうっ・・・・・・」
マヌケな顔、してやったり。
この顔をアイツがみたらどう思うだろうか。
そんなこと、考えたくも無い。
もう、何も考えられない。
己を穿つ狂気を無心で受け止められるはずも無く、みっともなく声を上げながら溶けていく思考を感じていくことしか出来なかった。
+ + + + +
「いっ・・・・」
体を起こしただけで全身に鈍い痛みが走って、危うくまた倒れ込みそうになった。
どうやら気絶してしまったらしく、時計を見るともう結構な時間になっていた。
起こしてくれればまだ何の問題も無かったのに、放っておかれたせいであらぬ騒ぎを起こしそうだ。
もしかしたら自分の不在にもう気付きはじめているかもしれない。突然攫われては自分勝手な行動に及ぶのだから本当に、迷惑な話だ。
ただ痕跡だけは綺麗に拭い去られていて、体の痛みと手の甲の傷を除けば何事も無かったと錯覚すらしてしまうほど。
生憎とそんな生易しい考えも幻想も抱いてはいないので、即座に屋敷を抜け出したことの言い訳を考えざるを得なくなった。
大丈夫、何ともない。
どうせあちらも何も無かったように振舞うのだから、何も思い悩むことなどない。
自分は、ただいつものようにしていれば良い。
何も、変わりはしない。
頭痛を抱えて、咽の痛みを堪えて、吐き出してしまいたい本音を抑えて。
「・・・・・・帰るか」
切り替えなくては、スイッチを入れなければ。
檻は、この部屋でなくあの人自身。
重いドアを開けて、部屋を出る。
さあ、帰ろう。
END