あの日触れた彼の手は、冬の空気のように冷たくて肌を刺す様だった。
温度をなくした冷たい陶器製の人形。
身じろぎ一つせずにただ瞠目したままの姿は良く出来た精巧な人形そのもので、温かみなんてこれっぽっちもない。
唇に手で触れて、撫ぜる。
ただそれだけの行為に酷く興奮した。
手で触れて、傍にいるだけで直接的な行為なんて無いに等しいのだけれど。
それでも何の前触れも無い、突然の出来事に彼は驚いて頬へと移動する指を見つめていた。
首筋に口付けて、離れる。
コマ送りのように途切れ途切れにゆっくり進む時間が過ぎる。

さあ、どうしようか。
触れたいという欲を、ただ衝動にしたがって行動した。
彼はこの後どうするだろうか。
気持ちが悪いと、もう二度と顔も見たくない、近寄りたくないと罵るだろうか。
潔癖な彼は、自分をどう思うだろうか。
嫌だと言ってくれるのは構わない。
でも、嫌われるのは嫌だと思った。
何か、言わなければいけなかった。
そうしたら後で後悔するも無かったのだろう。
でも、言葉が無かった。
胃の奥のあたりで鬩ぎあう感情がそれ以上の行動を拒んでいた。
ずっとこうしていたい、思っても時間は過ぎていく。
咽がカラカラに渇いて、声を発することも出来ないままに彼は離れていった。
一瞬だけの冷たい温もりだけが残って、酷く傷ついた彼の顔が目に焼きついた。


明らかな拒絶の色。
彼の世界に自分はもういないのかもしれないと思うと、目の前が灰色にくすんだ。
ゆっくりと動いて、一拍老いてから急いで逃げ出した彼の姿が頭の中をくるくる廻る。
バンッ、と大きな音を立てた扉の蝶番が悲鳴をあげた。
明るい闇に浮かぶ月のような彼を、初めて太陽のようだと感じた。
静かで、冷たい月は何も与えない。
ただ返すだけ。
でも、今の彼はまるで太陽だ。
強すぎる光は、毒にもなる。
目を焼く、痛みが体中を駆け巡った。
彼に与えられた、苦痛。


辛い、痛い。


それでも、まだ満たされない。






「まだ、足りない・・・・・・・」










綺麗な箱庭の世界の終わりに


















閉じかけていた世界がゆっくりと動き出す。
安いベッドよりもずっと快適なソファの上での睡眠も、あってないようなものだった。
少しばかり腫れた目を擦って、はためくカーテンの隙間から覗く光に顔を顰める。
ゆっくりと上体を起こすと、体の節々から乾いた音が発せられる。
腕の関節を曲げると、面白いくらいに音が鳴る。
立ち上がってみると体全体が濡れた服を着たように重い。
それは気分の性でもあるのか、昨夜の悪夢のような数分間の出来事が頭の中を何度もよぎる。
鬱々とした気持ちでパソコンを立ち上げて、作り置きのコーヒーを口に含む。
砂糖は入れなかった。



「・・・・・・・・・・苦い」



ヴヴゥ、と短い起動音が響いた後、部屋は再び沈黙する。
閉じきったカーテンを勢いよくひらいて窓を開けると冷たい空気が流れ込んできた。
カサ、と何処かで紙の擦れる音がした。
部屋を見渡すと、部屋の入り口のドアに何枚もの紙が挟まっている。
オートロックのドアに挟まった紙のせいでドアは半開きのままだ。
彼が力任せに開け放ったドア、おそらく閉じた音はしなかった。
それに気付く暇も無いくらいに神経が狂っていたのだろうか。
飲みかけのカップをテーブルに置いて、パソコンのデータの中から彼のデータを引き出した。
顔写真、簡単なプロフィール、捜査員による素行調査の結果。
もう暗唱できるくらいに何度も見た。


夜神月


液晶のディスプレイに映った文字を指で何度もなぞる。
もう、手に入らないのなら消してしまいたい。





彼を?




自分を?






どちらでもいい。
消えてしまえば、きっとそんなことは気にならなくなるだろうから。







声を、聞きたかった。
傍で、触れて、温もりを確かめたかった。
人らしからぬ、冷たくて暖かなあの温もりを。
あの白い腕には今も血が通っているのだろうか?




『確かめてみる?』




冷たく響く彼の声はもう無くて、代わりの声は戸惑ったように言うだろう。




『どうしたんだよ、急に。当たり前だろ』




裏表のない、答え。
彼の闇に惹かれているのだと思っていた。
変わってしまった彼を妙に思っても、もう惹かれることは無いと思っていた。
ソレは小さな安堵を齎した。
自分が断罪すべき存在に、心を奪われかけていることを怖いと感じた。
だから、牙を抜かれた手負いの獅子のような彼を見ていられた。


今はもう、全てが壊れて手の施しようも無い。
変わったと思っていた『彼』は『彼』のままで、感情の制御もなにも出来なくなってしまっていた。


一度触れてしまった、意識してしまった。
止まれない、加速するだけ。









「もう、遅い・・・・・・」








一度別れを告げた存在に、もう一度恋をした。
言葉にせずに、触れないままに終わった恋はもう一度ゼロから始まった。
今度は違う終わり方であるように。
見目だけ美しい箱庭なら、いっそ壊してしまえばいい。
そうやって始まるものがあるかもしれない。












ガ、タン











柔らかな、茶色の髪がドアの向こうに見えた。
小さく動く、影が。




「月君」




閉じきらないドア、その向こうに座り込んだ貴方に。






「りゅぅ・・・・・ざき?」





「おはようございます、月君」







手を差し伸べて、笑う。
もうどうだっていい。
痛みでも、苦しみでも、『彼』に満たされる。
ソレが『彼』なら、なんだって受け入れる。












神の箱庭を壊した愚か者の、恋。