「私は本当に幸せ者です」


囁きのように儚いその言葉は風に乗ってそのままとけて消えてしまいそうな。
表情は笑いながらも悲しげな色をたたえた瞳が揺れた。
冷え切ったカップの中身に口を付け、それを見なかった事にしたほうが良いのだろうかと一瞬逡巡した。
けれどそれも必要の無いものだったのかもしれない。



「あ、もしかしてもうお菓子無くなっちゃったんですか!?」


全部、無かった事にしてしまおうと彼自身が決めたようだから。
ほんのわずかな時間垣間見せたまぎれもない本音、それは自分だけが知っていればいい。



「ああ、本当だね。全く、君は日にどれだけの糖分を摂取すれば済むんだい、アベル」


空になってしまったバスケットには色とりどりの包装紙に包まれたクッキーが入っていたのだがいまはただテーブルの上に何枚か残すのみになってしまっている。
そのほとんどはアベルの腹に収まってしまって、綺麗に折りたたまれた包装紙をアベルがいじりまわしている。
すねたような顔は先程のガラス細工のような表情など微塵も感じられないほど子供っぽい。


「お菓子がおいしすぎるのがイケナイんです〜、紅茶もおいしいですしね」


つんと唇を尖らせてポットから紅茶を注ぎ足すと、シュガーポットからティースプーンで何杯も砂糖を入れてかきまぜた。
苦笑しても、おいしそうに紅茶を飲む姿を見ているとそれでもいいかと思える。
どんなものでも、今アベルがおいしいと感じて笑っている事には変わりない。
この笑顔は真実だ。


「けどねえ、君。それだけ砂糖を入れてしまったらケイト君も怒るだろう」

「えへへ、もうとっくに怒られてますけど・・・それ以上に呆れられちゃってますね」


彼女ご自慢の特性レシピは自他共に認めるくらい評判がいい。
けれどアベルの飲みかたといったら元が例え水だとしても変りが無いのではないかと思えるほど砂糖を入れて飲むのだから。
わざとらしくため息を吐いてみてもいっこうに気にしないのだから、こればかりは直らないとみていいだろう。
柔らかい風が、細い銀糸を揺らす。
長い髪がフワリと風にながれて日に透けた。


「いいお天気ですね〜」

頬に掛かる髪をそっと耳にかけて微笑むアベルはふと空を見上げた。


優しげな笑顔に小さな影が差すのは決まってこんな時だ。
じっとみていなければ見逃してしまうような仕草。
一瞬視線を下に落として、そのあとに瞳が不安気に揺らぐのを見落としてはいけない。
気付かれたくないと、彼が思っているから余計に見落としてはならない。
公言などしない、けれどせめて自分だけでも分かっていなくてはいけない。
幸せの中に見を浸すのを厭う、それを罪だと感じる彼を救ってやりたいと何度思った事だろう。
何度想い、そしてそれをしてやれない自分を幾度不甲斐ないと感じただろうか。



「思わずお昼寝したくなっちゃいます・・・」


眠たげに目を擦る仕草は幼い。
いつまでも変わらない、表情。

結局自分は、彼を変えてやる事ができなかった。
守る事に必死で、断罪を待ちながら贖罪を乞い、どんなに傷ついても立ち止まらない。



「教授?」



自分が死んだら悲しんでくれるだろうか。
悲しむのだろうか。
誰もが皆彼を置いていく、ひとりぼっちで悲しいとも口にしない彼はいつになったら救われるのか。



「・・・・・・ウィル」



久しぶりに聞く呼び名だった。
透明な目が、じっとこちらを見つめている。


「ああ、天気がいいからね。ついぼうっとしてしまったよ」

「・・・・・・ええ」

「折角だから散歩でもどうだね?」


今日はもう少しだけこうしていたかった。
こんなに余計なことを考えてしまうほど、自分は年を取ったのだろうか。
けれど、先を思えばこの時間は何にも変えがたい大切なもののように思えた。

アベルはフワリと微笑んだ。


「それもいいですけど、久しぶりにあなたのバイオリンが聞きたいです」


あとどれだけこうしていられるのか。
そんなことは分からないし、考えたくも無い。


「む、最近はあまり弾いていなかったからねえ・・・・・・」

「いいじゃないですか、折角のお休みなんですから」

「・・・そうだね、そうしようか」


連れ立って歩き出す、木漏れ日の道。
漆黒の僧衣を風に揺らして靡かせる。

こんな平穏な時間だけが有ればいい。
彼がそれを望まない分、自分が望んでやるべきなのだ。

血なまぐさい場所が、似合いだと。
そこだけにしか生きられない存在なのだと、自負する彼の幸せを祈ろう。




強く儚い永遠の友よ、どうか君に幸あれ。