ひらひらと舞う薄桃色の花弁は庭を埋め尽くして、その色一色で染められる。
ようやく芽吹きだした草木の上を蝶のように舞って落ちていく桜はどこから来るのだろうか。
視界に入る範囲内には桜の木は見当たらないのに、風に乗って運ばれてくる花弁は絶え間なく花吹雪となって春を告げる。
桜の開花予想に被さるように雨が降って、散ってしまわないかと思っていたがそうでもないらしい。
冷たい雨の後は暖かな気候が暫く続いて、そのおかげで花と同時に葉も一緒に瑞々しい色で町を彩るといういいのか悪いのか、それでも絶好の花見日よりであった。



学校へと続く道に植えられた桜はうざったいくらいに咲き誇っていて、情緒を楽しむ気も失せると店の前を歩いていた女子高生が言っていた。
それでも見事な染井吉野はやはり美しいのだと、多感なお年頃の少女はわけのわからないことを言っていた。
学校が始まって憂鬱な気持ち半分、嬉しさ半分。
なんとも言葉にし辛い微妙な気分。
学生さんは見ていて飽きないなァ、と老人みたいなことを思ってはのんびりとその声に耳を傾けた。
おしゃべりをしながら歩く女の子達は歩くのが遅い、耳に届く範囲のおしゃべりは内容も理解できる程度には聞き取れる。
さして興味があるわけでもなかったのだけれど、彼の学校の制服を身にまとった彼女達は時折自分にとって有益な情報を齎してくれるので聞いて損はない。
そんなこと滅多にないけれど、ほんとに時折飛び出す名前には異常なほど耳が勝手に反応してしまうのだから仕方ない。




『そういえばさ、聞いた?アノ噂』


『え、なになに?』


女の子は総じて噂話の類が大好きだ。
興味津々といった様子で目を光らせる少女たちは、それだけで楽しそうだった。



『黒崎の噂、聞いてないの?』


黒崎、と。
その名前を聞いた瞬間に全神経をそちらに傾けてすっかり聞く体制に入った。
煙管片手にぼーっとしている、形だけは変わらない。
興味津々なのはあの女の子よりもむしろ自分だと気付いてなんだか変な気分だ。
外からは見えない位置、どうせ客も来ないしヒマだったからと聞き入ってしまったのが悪かった。
この辺りで彼女達と同じ高校の黒崎、といえば勿論彼しかいない。



『あ、まさかアレ・・・?デマじゃ無かったの!?』


『ホントだって、アタシ織姫から聞いちゃったんだもん』


『うっそだぁ〜』


『アンタがそう言っても事実は変わらないんだからね〜』



まあ、盗み聞いている会話だから仕方ないのだけれど。
『アレ』やら『本人』やら、彼女達にだけ分かる代名詞では重要な所は理解できない。
彼女達が話す内容は本人達の中で始まって終わっているのだから当然といえば当然だ。
なんにしても聞き逃す訳には行かない内容であることは、確か。
話している彼女達も段々とヒートアップしてきたようで、店の3,4メートルほど手前で止まって黄色い声で言い合っている。
それにしても、よく知る人物の名前も出てきたところでやはりこの話のメインはどうも彼らしい。


『でもねぇ・・・黒崎に年上の彼女なんて信じられないよ・・・』


『何いってんの!アイツあれでいて結構優しいし、カッコイイし・・・まあ怖いとも思うケドさ』


大きくなったり、小さくなったり、変化する声音をしっかりこの耳で聞き取ってしばし呆然とする。

年上の彼女、とは初めて聞いた。
いや、まさか彼が浮気しているとかそんなことを思ったわけではなく。
そんな突拍子もない噂話が彼女達のニュースソース元である彼女から流れてくるということが信じがたい。
何か意思疎通の途中で障害でもあったか・・・もしなくとも彼女はどうも普通という基準からやや外れがちであるから、直接的にそういうことをいったわけではないだろう。
それにしたって・・・年上の彼女・・・・。
なんだか笑いが込み上げてきて、このことを彼が知ったらどんな顔をするのか・・・想像するだけでたまらない。
こちらが笑いを堪えている間にも、会話は続く。


『う〜、やっぱこの耳で聞かないことには信じられないよ』


『あ、いっとくけどこの話織姫の前ではしないようにね。まだちょっと引き摺ってたみたいだから』


『そっか、・・・・』


『うん』



僅かにひそめられた声に、ああそうかと思う。
人間関係というのは、酷く面倒なものだ。
彼女達は思わないだろう事を、ひたすら心の中で思った。
今更ながら、気付く。

自分が彼を好きで、ようやく得た位置を同情で他人に譲ろうなんて死んでも思わないけれど。
彼を好きなのは、自分だけではないのだと。
そんな当たり前のことを、失念していた。
遠のいていく声も、もう意識の外だ。
部屋に吹き込んでくる桜の花弁が膝に舞い落ちてくる。
ただソレだけを目の端に捉え、はやく時間が過ぎてくれればいいのにと思う。


『そういえばさ、明日の数学の小テストの範囲ってどこからだっけ?』


『ええっ、小テストって明日だったの!?』


『そうだって。確か一時間目』


わずか数分間の間、短い時間。
なんでもないありふれた学生の登校時間は、案外貴重なものだ。



少なくとも、自分にとっては。