早く、早く。
駆け抜けていく風を追い越すように、瞬きするよりも短い時間。
止めようもない、この思いは。
だんだんと近くなってくる血の香りに、一層高まった。



何もかも先を見通せる人間など居るわけがない。
神様だって、そんなことは出来ないだろうに。
そんな当たり前のことを思いながら、けれどその事実に歯噛みした。
完全なる先見は不可能だ。
けれど、これは予想していなかった訳ではない。

ひゅぃ、と風の流れが一瞬止まる。
コマ送りのように緩やかに、帽子が風に零れた。


「あ」


何、してるんだか。

らしくもない。
発生に一番楽な母音の呟きが言葉に構築し直されるその前に、横から伸びてきた腕がソレを掴み取った。
すまなさそうな視線を投げかけても、彼女の表情は変わらない。


「たわけがっ、何をしている!」


美人は怒ると怖いというが、彼女は怒ると怖いなんて物じゃない。
静かに怒るという事ができる人間は何をするかわからないのだから、むしろそれが怖い。


「・・・スイマセン」


その謝罪の言葉は、一体何に対してなのだろう。
自分自身にも理解できないまま、時間は光のように過ぎていく。

焦るな、焦るな。
こんなものは予想の範疇だ。
何もかも自分の手のひらで回しているように、計算し尽くしたように。
陳腐なラブストーリーみたいに、展開の分かりきったように。
自分は、ただ馬鹿みたいに、颯爽と登場してやればいいだけの話。
狙い済ましたように、絶好のタイミングで。


間に合うだろうか、手遅れにはなっていないだろうか。

考えるな、考えるな。
つま先から頭のてっぺんまで駆け抜けた、居心地の悪い、下らない予感なんて無視してしまえ。
ガラスが割れるような、耳鳴りがするような、真冬に水をかぶったときのような。
ザワザワと肌を泡立てる、不快な予感など、無かった事にしてしまえ。


慟哭のような、懇願のような、行き場のない声が。
崩壊の、音が、聞こえる。
ひび割れはどんどん広がっていく。
彼の意思とは関係なく、きっとソレは広がっていく。
呑まれるな、呑まれてくれるな。



血の一滴だって、流させたくはない。
痛みなんて、欠片だって感じさせたくはない。
それを、嫌だと感じるなら、守ってみせろ。
自分自身に言い聞かせる、繰り返し。


だから、はやく。

本当は、余裕なんてこれっぽっちもなかったのに。
君のためなら何でもできる、なんて安っぽい言葉は一生口にはしないけれど。


せめて、いつも通り、余裕ぶっていよう。