まだ夏というには早い季節だというのに、物が乱雑に置かれて狭苦しい部屋に吹き抜ける風は夏のそれ。
僅かに髪を揺らす風は生暖かく、差し込む日の光を酷く暑いと感じた。
床の上に山と積まれた厚い本は日に焼けてすっかり色が変わってしまった。
気持ちのいい天気だけれど、どこかやる気を奪うような。
いっそ昼寝に丁度良い、そう思ってみるも机の上の紙束がそれを邪魔する。



「ハァ・・・・」


いっそ風に攫われてしまえばいいのに、真っ白な原稿用紙は随分前から減ってくれない。
浦原は何度か迷うように鉛筆を紙の上で彷徨わせ、さらさらと流暢な字で描いては消している。
何度も何度もその繰り返しで、いい加減うんざりしてくる。

壁にかかったカレンダーを見てみれば、大きな赤丸で印した日が近いことが分かって更に気分は滅入る。



「書けないものは書けないんですから仕方ないじゃないデスカー」


「仕方なくねぇよ、さっさと仕事しやがれ!」



ズルリ、と机に力なく突っ伏した浦原の頭を容赦なく小突く一護は呆れを通り越して怒り心頭の様子。
もう一週間もこの調子で、締め切りも近いのに焦った様子も見えない当人よりもむしろ周りで見ている方がイライラするとブツクサ文句を言っても浦原のペースは変わらない。
小説家なんて、そんなものだといってしまえばそれきりなのだが自分が居なければロクに生活も出来ないような物書きは浦原くらいなものだろうとため息混じりに吐き出した。
資料なのか、それとも気分転換のために少し広げた本なのかさっぱり区別のつかない床を埋め尽くさんばかりの本は半日も放置しておくとそのうちなだれを起す。
一体どうやったらそんな短時間で部屋を汚せるのかとも思う、空き巣だってこんなに部屋は荒らさないだろうというくらいなのだ。
そもそも原稿を書いているのだから常に机に向かっていなければならないのに、・・・といっても全く進んでいないのだが。

小説家、浦原喜助という男は年の離れた同居人無くしては普通の生活すら満足に送れないものぐさな男であった。










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『おや、黒崎サンの所の一護クンじゃないですか』


半年ほど前に、学校帰りの道でいきなりそう声を掛けられた。
ボサボサの髪に上下深緑のスウェット、真冬の夕方で辺りはすっかり暗いがその格好はないだろうと言うくらい胡乱な格好の見ず知らずの男にいきなり声を掛けられて怯まない人間はいないだろう。
一瞬不審者かと目を顰めたが、自分の名前を知っているということは間接的にどこかで接点でもあるのだろう。
黒崎さんの、ということは妙に顔の広い父親の知人だろうか。
しかしそれにしても自分の父とは年が離れていると一護は不思議に思う。


『あの・・・どちらさまでしょうか?』


目の前に立つ男は二十代半ばから後半くらいで、父の同級の友ではない。
では実家医院の元患者か、暗くてあまり良く見えないが血色はあまりよくない気がする。
栄養失調?ンな阿呆な。

頭に大きな疑問符を浮かべながら尋ねると、男は小さく笑った。


『ああ、そうですよね。分かりませんよね』


『はあ・・・・』


適当な相槌以外に返答の仕様も無く、一護はじっとまった。
非常に失礼なことではあるが、一護の心境としてはこの妙な男からさっさと開放されたくて今ここから逃げ出したいとすら思った。



『アタシは浦原喜助といいます、キミのお父さんの・・・遠縁で友人です』


遠縁、ということはもしかしたら自分が子供の頃に会ったことがあるのかもしれない。
顔を見てすぐに分かるということはそういう可能性もある、親類の中では唯一の明るい橙色の髪はどこに行っても目立つからだ。

それにしても答えるまでの妙な間がとても気になる。
かといって初対面・・・、の目上の人物に対してそうズケズケとものを言う訳にもいかない。


『ハァ、それはどうも・・・・・・』


軽く頭を下げて挨拶するが、その後どうしたらいいのか分からず一護は視線をあちこちに彷徨わせる。
どうにかこのままさっさと家路につきたいのだが、切り返しの言葉が思いつかない。


『いやぁ、随分立派になってたから一瞬声かけるの躊躇っちゃいましたよ。もう高校生なんですネェ・・・』


アンタどこのオバちゃんだ・・・と突っ込みたいくらい老成しきった言葉に一護は戸惑うしかない。


『キミが小さい時に2,3回会った事あるんですけど、覚えてません?』


『いえ、あの・・・すみません』


『キミが謝ること無いですよ、十年くらい前のことですし』


覚えていないのは当然だと、浦原は笑い飛ばした。
一護は今十五歳だから十年前といったらまだ五歳。
2,3度会った程度では覚えていないのも当然だろう。


しかし、さすが父の知り合いというか・・・胡散臭さでは父と並ぶかもしれないと一護はそんなことを考える。
自分としてはあまりお知り会いになりたくないタイプだ。

頭の中で『さっさと帰りたい、帰りたい帰りたい・・・』とそればかりを考えているが顔を上げた一瞬後、それは叶わなくなった。



『あ、』



自身でも予想もしなかったような、呆気に取られたような声だった。

目の前でスローモーションのようにゆっくりと、浦原の体が傾いであっけなく地面に倒れた。
あまりに唐突過ぎて脳がついていかなかった。




『は・・・・・・・?』
















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「あー、なんかヤなこと思い出した・・・・」


「何をです?」


その『ヤなこと』の元凶そのものである本人は、暢気に茶を啜っている。
休憩休憩、と一体何回休憩すれば気が済むのか・・・呆れすぎてものも言えない。

呆れるなんて、あの日から幾度したことか。
もういい加減なれてきたような気もする。

あまりにも突飛な出来事に一護の度肝を抜いた不精な小説家、浦原喜助が倒れた原因はというと・・・『栄養失調』であった。
聞けばもう3,4日水以外を全く口にせずに散歩に出ていたらしい。
それだけでも驚きなのに本人は倒れるまでそのことを全く自覚していなかった。
目の前で倒れた人を放っておくような事が一護にできるはずも無く、仕方なく住所を聞き出して苦労して家まで運んだ。
・・・今思えばアレが悪かった。
こんな男、そのまま路上に転がしておけばよかったのだ。


「なんでもねー」


家に着いてみれば空き巣でも入ったのではないかというくらいの荒れ様、足の踏み場の無い部屋というのを一護ははじめて見た。
そんな場所に病人を転がしておくわけにもいかず、一護がまず最初にしたことといえば・・・掃除。
浦原が片付けるという作業が全く出来ないと知るには時間は全く必要なかった。

最初に甘やかしたのが悪かった。


あらかた片付いて、軽い食事を作って落ち着いてからやっと自宅に電話して父に事のあらましを説明すると何がそんなにおかしいのかひたすら笑うばかりで、次に出てきた言葉といえば。


『おう、じゃあ一護・・・お前いっそ住み込んじまえ!!!』

・・・・もうわけがわからない。
要するに住み込みでこの男の世話をしろと、そういうことだ。
冗談じゃないと、当然言った。
けれど父が一度言い出したら聞かないことも、もう充分すぎるほど知っていた。
浦原が小説家だと知ったのもこの時で、部屋に積まれた本もそのせいかと少し納得した。

今は整頓されて少しはマシになった部屋、それでもやはり完全に綺麗にならず一護は今日も家事に勤しんでる。
成り行き上仕方なく、と思っていた同居生活も今は全然苦ではない。
人間の順応性というのは素晴らしいと、感心せずにはいられなかった。





「一護サーン、おなかすきました」


「あー、ハイハイ。食い終わったらいい加減仕事しろよ、しなかったら夕食は作らねえからな」


「ハーイ」



やる気の無い返事に、どうせ今日もやらないのだろうなと思いつつ一護の足は台所に向かう。
今日も特に、いつもと変わりなし。




小説家と高校生の同居生活も、意外と上手くいっているらしいと隣家の住民は語る。