自分の置かれている状況にイマイチ現実味がなくて、僕は思わずその光景に魅入ってしまった。
想像もしない、というよりも思うに至る要因すらないのにあらかじめ予想などできようもない。
そんな光景が、今目の前に広がっていた。

綺麗に整理整頓された、落ち着いた部屋はもう見慣れたものだ。
机の上のノートが窓から零れてくる微風でぺらぺらと捲れている。
見慣れた、部屋の中、見慣れているはずのものが、異質だった。

自分が訪ねてくると、彼はいつも不機嫌そうにこちらを見遣って言うのだ。

『勉強中だから、今はダメ。邪魔するなよ』

0.5mm、HBのシャーペンの芯を時折補充しながら、そう言う。
けれど、勉強中であるはずの彼のノートはいつも真っ白だ。
開かれている教科書はいつも同じ、数学。
開かれているページも、大体同じ。
繰り返す、ループ、ループ、ループ。
そう、繰り返す。
自分はお預けを喰らった犬みたいだけど、照れ屋なご主人様のために健気に待つのだ。

『ちょっとだけだからな』

コチラと視線を合わせないように、少しだけ俯いて。
そういって、お許しが貰えるまでじぃと見ている。
時間なんて、世界には必要のないものなんじゃないだろうか。
自分にとって重要なのは、その時間の長さでも、短さでもなく、彼が自分から動いてくれようとしているという事なのだから。
フローリングの床に縫い付けられたままの視線が、暫くするとだんだん上がっていく。
覗うように、彼は僕を見た。
僕も彼を見ている。
その間、僕は何も喋らない。
意地が悪いと、訳が分からないと彼は言うけれど、これは自分にとって重要な行為なのだ。
甘えているのか、甘えられているのか、甘やかしているのか、甘やかされているのか。
彼にとっても、自分にとっても、全てが間違いで、全てが正解だ。
言葉を交わし、お互いに触れもするのだけれど、それはあまりにも低温度過ぎた。
熱のない、音のない、色のない、世界を。
それを幸福だと知ったのは、いつだったか。
壊れているのだろう、壊れてしまったのだろう。


『すき』


言葉に快感を感じるなんて、馬鹿みたいだと思った。
あらかじめ暗黙の了解となっていたルール。
それは、『流される』という事だったのかもしれない。
なんだかよく分からないのだけど、気付いたらそんなことになっていたのだ。
それが自然の流れのように、何時の間にか会う時間が決まっていて、他愛もない話をして、体温を分け合って。
今考えてみると、やっぱり普通じゃない状況だったから、そんなことになったのかも。
ああ、そうだ、あの時も。


今みたいに、僕等は血まみれだった。





彼は真っ白なシーツに横たわっていた。
眠っているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。
『死』という言葉がようやくしっかりと脳に伝達されて、僕は急いで彼の元へと走りよった。



「   !」



こえも、でない。


真っ白なシーツ、けれど彼が抱きかかえている枕は真っ赤だ。
左の手首と、腹と、それから頬。
血が、流れて、こびりついて。

机の上の真っ白なはずのノートには、べったりと血が付着していた。
彼がついこの間無くしたとぼやいていたシャープペンシルはやはりそこにはなく、変わりに安っぽいカッターが転がっている。
そこから、道標のように、ぽたぽた、血が、おちて

こんなのは、知らない。
確かに、あの日も僕等は血まみれだったけど、こんな下らない、安っぽい、どこでだって可能な、誰にだって可能な方法で血を流していた訳じゃない。
己の研ぎ澄ました力をただただぶつけ合って、真剣に殺しあおうというところまで戦って、そうして流した血はどこへいったのだろう?


どちらの言葉だっただろう。



 す き



『すきです』


何度も言った。


『すきだよ』


一度しか聞かなかった。



何が、いけなかった?
何を、まちがえた?



ループ、ループ、ループ。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。


巻き戻し。







「殺したいほど、愛してる」






あれは、どっちの言葉だった?