自分のエモノは刃物のように血に濡れない、銃のように無粋な煙を吐き出さない、毒のように精神を冒さない。
ただ一冊のノート、ただそれだけだった。
自分が直接殺そうと思っている人間に会わなくても、いつどこに居ようとも殺人は容易かった。
ほんの少し、周りを警戒しながらペンで名前を綴ればそれでお終い。
カップラーメンを作るより簡単、三分以内でできるお手軽な殺人講座。
ただ名前を書けばいい。
目に映る世界は広く、けれどどこも同じような風景ばかりだ。
つまらない。
聳え立つ高層マンション、オフィスビル。
光るネオンサインはいつだって目を焼いた、頭の中までピンク一色になってしまいそうだ。
都会の真ん中、コンクリートジャングルにはうざったいくらいに人間が詰まっている。
いろんな人種、いろんな性格の人間達。
こんなに違うのに、同じに見える。
言葉の矛盾性に嗤いながら、コートのポケットに手を突っ込んで違法駐車の車が犇く道を歩いた。
道端にはカラスに荒らされたゴミが散乱していてとても汚れていた。
それを踏まないように歩くのは中々労を尽くす、一面ゴミだらけの道。
もはやこれは道とはいえないのではないかといえるほど荒れている。
建物だけは綺麗なマンションの前にまで広がっているゴミの道は、暫く続いていた。
『なんかここ数年で随分変わったよな、この辺りも』
背後で心の底から感心したような声が聞こえて、なんだかおかしかった。
声を出さずに笑うと真後ろにぴったりとくっ付いていた大きな影が目の前に躍り出た。
視界一杯に漆黒が満ちて僕は眉を吊り上げる、表情だけで少し怒って見せた。
周りにはほとんど人の影がない、もう夜もふけてあと2,3時間もすれば夜明けという時間帯だからだ。
だから別に普通の人間に生えない死神に対して文句をいっても構わなかったのだけれど、なぜかそうしなかった。
きまぐれ、といってしまえばそれで終わってしまうさして理由もないことだ。
『なあ、ライト』
死神の呼びかけに答え、ライトはぴたりと歩みを止めた。
電線に群れているカラスが騒がしく鳴く。
不快だという気は、しない。
思っても動物は殺せないものな。
「これでいいんだよ、リューク」
厚い雲に覆われた空を見上げた。
夜明けにはまだ少しばかり早い。
荒んで汚れてしまった世界には、この時の風景が似合いだ。
姿無き制裁者に怯え、身を縮ませ、祈りの言葉を口にするがいい。
もう己を止める存在は何も無い。
急く必要も無い。
だからゆっくりと、真綿で首をしめるように壊していこう。
世間では、朝も夜もニュースで人の顔を映さない。
このどこまでも広い世界の中で己の名と姿を他人に容易く見せることが恐れられ始めたのは何年前か。
咎を侵した罪人の顔はどんなニュースにも出なくなった。
全ては断罪者を恐れるがため。
『オレは林檎が食えればそれでいいけどな』
「ハハハ、君らしいよ」
欲しいものが得られればそれでいい、何を隠すことがある。
欲望を持ってこその人だ、それを持たずして人だと・・・なんと愚かしい。
力を持った人は神になった。
与えるのは死のみ、けれど間違いなく神だった。
その存在は世界を揺るがし、歪めた。
『ああ、オレらしいだろう?』
死神は、醜い顔を歪めて笑った。
もう見慣れた顔だった。
もう自分をを、止められる人間など存在しない。
それをできるのは目の前の死神だけ。
「ねえリューク、君は最後まで君らしくあってくれよ」
珍しく、懇願のような呟きを漏らして目を伏せると死神は困ったように言った。
『最初からずっとそうしてるさ』
「なら、いい」
吐き出すように言って、もう一度歩き出す。
冷たい風が髪を撫ぜた。
夜が、明ける。
その次の夜、一冊のノートを手に死神は言った。
『お前を殺すのも面白そうだな』
偽りの神は肩をすくめ、こう返した。
『言っただろう、君は君らしくあればいい』
壊れかけた、笑みだった。
死神は笑った。
『ああ、そうする』
この狂った神は、生れ落ちた瞬間に死んでいた。
障害を消し去り、それは生涯を消し去った。
感情を無理矢理押さえ込んだような表情、涙は無い。
黒いノートの裏表紙に、僅かに透けて見える痕があった。
インクのないボールペンで書きなぐった、とても不恰好な文字だった。
I killed you.
However, I loved you.
死の帳面に、今日も名前が綴られた。
END