森には魔法使いが居ると聞いたの。それは本当? ええ、本当よ。 絵本みたいに、悪い魔法使い? 昔はそうだったかもしれないわ。でも今は、可哀想な魔法使いよ。 …どうして変わってしまったの?
魔法使いは、恋をしたのよ。
ぱきり。小さな足に踏まれた枝が小さな音を立てる。ドレスの裾はもう解れてしまって、髪を飾っていた大きなリボンも今はただぶら下っているだけに過ぎない。今にも泣き出しそうに愚図らせる鼻を啜りながら、少女は森の奥へ奥へと進んでいく。 ”そこ”の灯りは、森の入り口に足を踏み入れていた時から見えていたのだが、歩き始めてもうかれこれ一時間以上は経過している。子供の足といえどもう随分進んだはずだ。一向に手にする事の出来ない灯りは、少女を追い返しているようだった。 「平気」 自分を勇気づけるように呟くと、鋭い草に足が切れてしまうのも構わず少女は駆け出した。
魔法使いの家に向って。
どん! 急に掛かった圧力に大きくつんのめって転んでしまう。足元には木の根の感触も、石ころの感触も無かったはずなのに。あえて言うなら、背を押された感触だ。 不思議に思いながら顔を上げると、灯りが。 魔法使いの家の扉を明るく照らし出していた。 「あ」 その扉が少しずつ開いていくのに少女は小さく声を漏らす。仄かな灯りが零れ、それに映し出される長い足。赤いマントが、ゆっくりと翻る。 「こんばんわ、お姫様」 そう言って現れた魔法使いはにっこりと笑った。 (血のいろ) 薄い硝子の向こうで笑う赤い眼を見て、少女はこれが”あの”魔法使いなのだと息を呑んだ。そしてそう思うだけでは我慢できず、口を開く。 「あなたが魔法使い?」 「………………ええ、私が魔法使いです」 さっきとは少し違う色の笑いで持って魔法使いの男は笑い、転んだままの少女を抱き起こす。 そして暖かな灯りに満ちた家の中へと導き入れた。
正しい魔法使いの家、とは。そう聞かれたならば少女は素直に、部屋中の髑髏や動物の標本、ぐつぐつ煮える大がまの中の紫色の液体、棚にびっしりと並ぶ黒魔術の書物、そんなものを思い浮かべるのだが、この魔法使いの家の何とまあ魔法使いらしからぬ事。 唯一”らしい”ところは棚とそれを埋め尽くす書物だが、そのどれも美しい背表紙が優等生のような正しい顔をして種類別に並んでいる。文字の読み書きの習得をすでに終えている少女には、それらが黒魔術の本でない事がすぐに理解できた。 「ここは本当にあなたのおうちなの?」 今自分が座っている真っ白いソファもあまりに似つかわしくなくて少女は顔を顰めてしまう。そんな彼女の様子に口元を綻ばせながら、魔法使いは”らしく”ない紅茶と茶菓子を用意する。 「そうですよ」 「…ほんとうに、あなた、魔法使い?」 じっとりと向けられる疑いの眼に肩を竦めた後、魔法使いは紅茶のカップを少女の小さな手に握らせる。椅子を引き寄せ、茶菓子を載せた皿を手にしたまま少女と向き合うように腰を下ろす。 「ここに魔法使いが居ると、そう言われてきたのでしょう?」 「……そうよ」 「では、おばあ様の言葉を信じなさい。私が魔法使いですよ」 少女は口に含んだばかりのまだ熱い紅茶を冷ます間も無く嚥下してしまい喉が焼けるようだったが、その言葉の衝撃に声を張り上げる。 「どうしておばあ様から聞いたと知っているの!?」 「おやおや、火傷しませんでしたか?」 応えは返らず代わりに、はい、と笑ってクッキーが少女の口元に差し出される。焼きたてのそれはいい香りがして、小さな冒険を終えてきた少女は酷く空腹だったが、それをなんとか押さえ込んで、ふいっと顔を逸らす。 「教えてくれたら、いただくわ」 「………強情な所が良く似ていますね。……ナタリアはお元気ですか?」 祖母譲りの金髪を揺らし、翠の眼を眼を瞬かせて少女は振り向く。くりんとした丸い眼はきらきらと輝いて、これから始まるだろう”話”に胸を躍らせている。 そんな様もあの好奇心旺盛なお姫様にそっくりだと笑って、魔法使いはゆっくりと口を開く。 それは随分と長い間仕舞い込んでいた、けれど今も色褪せない記憶。
「貴方のおばあ様はずっと昔、魔法使いと一緒に旅をしていたんですよ。人形遣いに騎士。唄歌いに導師様。そして、王子様と…」 「王子様の名前は、アッシュ?」
少女の祖父であるだろう人の名を聞いて魔法使いはゆっくりと首を横に振る。 胸に詰めた空気を全部吐き出して、それからでないと口にできないこの名前は、空気と一緒に魔法使いの心を震わせる。 「王子様の名前は、ルーク」 「…ルーク」 そう呟いた少女の唇がジェイドの手からクッキーを奪い取る。クッキーと一緒にその名前を少女は咀嚼する。そして飲み込んでしまう。 王子様は、ルーク? 「それは、おばあ様の王子様?」 少女の大きな眼いっぱいに魔法使いの苦笑が映り込む。魔法使いの赤い眼の中で揺れる自分の姿に、少女は小さくを息を呑む。 (可哀想な、魔法使い) 揺れる赤が、悲しい。 「いいえ、おばあ様ではなく。…魔法使いの、王子様なのね」
悲しい。
「…おばあ様は言っていたわ。あなたは昔、悪い魔法使いだったって」 「悪い、ですか?」 急に振られた話に魔法使いは拍子抜けして、クッキーの乗った皿が傾く。零れてしまいそうなそれを慌てて急き止めていると、少女はソファから立ち上がった。解れたドレスの裾と、解けたリボンが揺れる。 「でも、今は可哀想だって」 「……そんな事を」 ほんの少しの反抗心と、それを覆って有り余る罪悪感。何度もここへとやってきた仲間達の顔が交互に魔法使いの頭の中を駆け巡る。そんな彼に空になった紅茶のカップを手渡して、少女は一礼。 「王子様は、きっと帰ってくるわ。だって、そうでしょう?」 「…お姫様への元へなら、帰ってくるのでしょうね。」 「魔法使いへの元へだって、帰ってくるわ」 「さあ、どうでしょうか?」 「…もう、待たないの?」 「さあ?」 「もう、嫌なの?」 「さあ?」 悲しそうな赤い眼が、白い瞼の中に逃げ込んでしまう。そのことに少しほっとして、けれどすこしむっとして。少女は魔法使いの長い三つ編みを掴んで引き寄せる。
「うそつき!」
「おばあ様はおばあ様になってしまったのに、あなたは違うじゃない」 「……」 「待っているから、おじい様にはならないんでしょう?」 「……」 老いた祖母とは違う、皺一つない美しい肌。 王子様の隣に居た頃から、魔法使いはこの姿のままなのだろうと少女は思う。 何時帰ってきてもすぐ、見つけてもらえるように。 白い瞼がゆっくりと持ち上がって、赤い眼が見開かれる。 その視界いっぱいに今映っているのは、自分ではないのだろうと少女はすぐに悟る。 王子様を今でも見つめているから、あの眼はあんなに悲しそうなの。 悲しそうだけど、とても、優しい。
私にくれた暖かい紅茶や、甘いクッキーに負けないぐらい!
「帰ってくるわ!」
「きっとおばあ様もそう言うわ!」
「私も、会いたい。魔法使いが恋をした王子様に、きっととても素敵ね」
「今でも好きよね?」
「王子様の事」
「待っているのよね?」
「きっと帰ってくるから、待っているのよね?」
ぽつりと、少女の頬に雫が落ちる。 見開かれたままの赤い瞳から一つ、二つと。
「おかえりって、言えるよ、きっと」 「……ええ」
はらはらと、零れる雫と幾つも受けて。 少女は魔法使いの頬に小さなキスを送る。
キスに込めた願いは (王子様、早く帰ってきて)
ぱきり。少女の足が小枝を踏んだ。道なんてちっとも判らないのだけれど、魔法使いが「まっすぐ進むだけで大丈夫ですよ」と、そう言ってくれたから。少女は自分が迷わず帰路に着ける事を知っていた。 振り向くと、あの灯りが小さく見える。もうどれぐらい離れてしまったのだろうか。 もう直ぐ入り口?それとも、まだあの家の庭ぐらいにいるのかしれら? あれじゃ解らないなぁと首を傾げながら足を進める。言われた通りに真っ直ぐに。
真っ直ぐよ。真っ直ぐ、真っ直ぐ… 「ごめん、ちょっと教えてくれるかな」
一直線上を進むべく、足元ばかり見ていた少女が顔を上げる。 すぐ目の前には、青年が一人。魔法使いよりも少し低い、けれど逞しい背筋がぴんと伸びている。 「魔法使いの家は、この先であっているかな?」 「…ええ。ええ、そうよ」 そっか。そう言って青年は緑の眼を細めて嬉しそうに笑う。 襟足で踊るように少し伸びた赤い髪は艶やかに揺れていた。 (あ) 光が駆ける早さで訪れた直感に少女は身を震わせる。 息を呑んで、そして言葉も飲み込む。飲み込んだ言葉を一番に口にするのは、私じゃないのだと。 「………もうすぐ、きっともうすぐだから。真っ直ぐ進んでね」 「そうか」 「魔法使いは、そこに居るわ」 「ああ…。有難う!」 太陽のように輝いて笑い、青年は駆け出した。隣を擦り抜けるその一瞬に少女の胸に訪れた溢れ零れる熱のような気持ち。
ああ! あの見開かれた赤い瞳から、きっともうすぐ悲しみが消えるんだわ!
「神様!」 感謝します!その思いで胸をいっぱいにして、少女は駆け出した。 真っ直ぐ、真っ直ぐに。
その日を最後に、”可哀想”な魔法使いは森から消え。 その次の日、”幸せ”な魔法使いが、王子様と共に森を旅立ったという。
「ただいま、ジェイド」 「おかえりなさい、…ルーク」
end. |
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