『さいご』って、一体なんなのだろう。





なんだか難しいことばかり考えていたので、その日の夜は『おやすみなさい』をいえなかった。
その事にさえ気づかずに眠りについて、朝になって起きる。
いつもは苦言を言いながらもしっかり起こしてくれるジェイドが先に食堂に行っていた意味も、起きたばかりの俺にはまったくわからず、昨夜あいさつのひとつが欠けてしまっていたことなんて、本当に意識の外だった。

朝食のとき、イスの背を指でコツコツとジェイドが叩くものだから何かと振り返ると、嫌味なくらい整った顔の、全開の笑顔で『おはようございます』と言われた。
しばらく俺は何かしただろうかと、必死に思考回路を動かした。
周りの会話もぴたり、とやんで静まり返っているのがわかったから、余計に。
何かを言おうとして口を開くけれど、それが言葉にならないので金魚の気持ちが少しわかってしまったほどだ。
ぱくぱく、なんて間抜けな。
するとジェイドがもう一度『おはよう』といった。
『ございます』がぬけたので、これはもう本格的にやばいのではないかと思う。

「お、おはよう」

少し嘘。
実際、は『おはやぅ』とか、そんな感じ。
舌がびっくりしたのか、変な風に回る。
みんなの視線が一点に集中するのを感じながらも、俺は動けない。
ガラス越しのジェイドの視線が、誰よりも強く射すくめたからだ。
何か悪いことを、またしてしまったのだろうか。
ジェイドの機嫌を損なうような何かを

「よろしい」

と、首の裏側につめたい汗を感じたところだったのに。
ジェイドはそういって、あっさりとひいた。
みんなも、ある意味引いた。
何がなんだかわからなくて、気持ちが悪い。

ティッシュを口に含んだときみたいな、なんだか感想も言いがたい気持ちの悪さに、けれど俺は少し安堵した。
なぜだろう、理由はわからなかった。


今思えば、あれはただ単に拒絶されなかったのが嬉しかったのだと思う。
あの後はというと、自分が何かしたんじゃないかと血相を変えて慌てる仲間に囲まれながらぼんやりしていたから気づく暇も無かった。

あの日は確か、最後の日まで後3日だった。
あの日は、だって、最期まで後3日だった。

俺が難しいことを考えていると、ジェイドは何もかもお見通しのように『早く寝なさい』って言うのに、あの夜は言わなかった。
いつもの『おやすみなさい』もないのに、何の疑問も無く俺は眠ってしまって、朝が来た。
どうでもいいようなあいさつも、片手で数えられるほどしかないなんて。
ジェイドに半ば強要されたような、そんなちっぽけなあいさつの意味に気づいたのは、さいごの『おやすみなさい』の後だった。
これがさいごだとおもうのに、できるはずなんて無かった。



その次の朝、俺は『おはよう』が言えなかった。