「ねぇ貴方、彼の涙を知っていて?」

俺の知らない匂いのする場所だった。
猥雑として、ねっとりとした熱を孕んだ空間に思わず眉をしかめたくなる。
不快指数は時の過ぎるごとに増していくのに、目の前の女はそんなことを言う。

「知らない」

なるべく会話をしたくなかった。
ぶっきらぼうに、なるべく端的に言ったはずのその言葉は自分が思った以上に子供らしさを含んで、ひどく惨めだ。
女は笑い声を隠そうともせずに、けれどいっそ小気味よく子供ねぇ、と返す。
瞬間的に頬が熱くなるのを感じて思わずうつむく。
この場所で明らかな異物である自分は、どうにも身の置きようがなくて居心地が悪かった。
年月を経たマホガニーのカウンターも自分に似合わないことくらい十分承知の上だった。

「ふふ、かわいい」

ひどく、馬鹿にされていると思った。
すらりと伸びた手足はけれど、自分にはない美しい丸みを帯びてひどく魅力的だ。
所作の一つ一つにさえ無意識に目がいく。
胸元の大きく開いた白のドレスから伸びた足を組み替えて、女は小さく首を傾けた。
胸まで届く長い赤毛を指に巻きつけて弄りながら、笑った。

「怒った?」

確かに怒っているのかもしれない、憤って。
いや違う、ただ単にうらやましいだけだ。
自分にかなわないことばかり、他人がそれを持っているような気がして、いらだっているだけだ。
隣に立っても遜色のない、何の疑問符ももたれない、それが自然であるような。

「本当に、彼が好きなのね」

髪を弄るのとは別の手で、女は雫をこぼすグラスをぴん、と指ではじいた。

「彼、きっと貴方が思うほどいい男なんかじゃないわよ」

「そんなの、わかってるよ」

「軍人なんて、ろくな仕事じゃないし」

「別に関係ない」

「そんなに好き?」


「、…好きだよ」

ああ、なんて意地の悪い。
そうだよ、俺が勝手に好きなだけだ。
俺がジェイドを好きなだけだ。
嫌われようが、軽蔑されようが、憎まれようが、俺はジェイドが好きだ。
隣に立つ資格なんてなくても、それでも。
どうあがいても幸せになんてなれないだろう。
女にはできて、俺にはできないことが多すぎる。
祝福からは、遠すぎる。

翡翠の涙を見たことがあるのかと、女はそれをたずねた。
そのとき初めて、ないということを認識して、心に穴が開いた。
なぜ、そんなことを聞くのか。
俺の持っていないものを、またひとつ暴いていくのだろうか。
翡翠の涙、それはどんなに綺麗なものだろう、あるいは醜いのか。
どちらにせよ、俺の知りようもないことだった。

「なら」

女はいたずらっぽく、わざと言葉を切って焦らした。
俺はその一瞬にすら緊張して、身をこわばらせた。

「貴方はきっと、もうすぐそれを知ることになるわ」

零れ落ちる翡翠の涙。
それはこの場にいる誰も、いいや、本当に誰も、知りえないものだったのだという。

「私もね、本当は知らないの」

「 え?」

聞き返した小さな言葉は、あっという間に消えた。
急に利き腕をつかまれて、反射的に腕に力をこめていた。
薄暗い酒場の証明が逆行になって、重い影が自分に覆いかぶさった。
女は笑っている。
影は、


「ルーク」


みどりいろ、の。
軍服。
呼ぶ声。

振り向いたその先に、ジェイドが渋い顔をしてたっていた。
手袋越しのジェイドの指が強く自分を戒めて離れない。
白いドレスを着た赤毛の女は、ひらひらと手を振って唇だけで「じゃぁね」と言った。
ワルツのステップでも踏むように、ジェイドは人垣の中を俺を引っ張りながら進んでいく。
夕刻の酒場は、ひどく混む。
女の言葉が頭に残って、離れない。
どういうことなのかわかりかねて、ジェイド、と呼ぼうとしたら口をふさがれた。
有無を言わせぬ無言の制止で、俺はあっけなく陥落した。


きらきらしい女たちの声が響く。
あのどうしようもない性悪男に、いつか涙が流せるくらい素敵な相手が見つかるかしら。
どうしようもなく恋を知るときがくるのかしら。
ああ、恋だなんて。
揺れる明かりの火よりも激しく、本気で。
ねぇ、そんな日が来るのかしら。
ええ、きっと来るわ。
あるいはもう、来ているのかも。


あら、それではいつになるか、誰が相手になるか賭けをしてみてはいかがかしら?